思考の傾向

 「理解」するために思想(イデオロギー)の助力を得た場合、逆に思想から他を「理解」しようとするに至るが、その「理解」の内容たるやその程度は著しく低いことが往々にしてある。だがその程度の低い「理解」しかしていない当の本人達は、自らの「理解」が浅いことをまったく認識していない。それどころか再検討する余地のない充分な「理解」であるとみなしてしまう。
 誤った「理解」、不十分な「理解」は大抵の場合批判に晒され、誤りが正されあるいはより深い「理解」に至りうる。しかしそういった機会に遭遇しないかあるいは遭遇しても当の「理解」が変わらない場合も少なからずある。特に何らかの原因で自らをなにか一種の天才のごとく思い込んでいる人間は、まさにこの傾向に当てはまる。こういう人間は自分の「理解」力に絶対の自信を持ち、自らの「理解」以外に正しい「理解」はないと信じ、あげくには自らと同じ「理解」に至らない人間を愚かであると評価する。
 しかしこういった人間の「理解」は大抵は誤っているかあるいは極浅い。ただ視野が奇妙に歪んでいるため彼はそのことに気づかない。気づかないこと自体が愚かであるにもかかわらず、彼は他者を自分の「理解」に達しえないとして愚かであると評価する。「視野狭窄で尊大化した自我に「後ろめたさ」はない」(浅羽通明)とはこのことである。