本宮ひろ志の漫画が休載

http://www.sankei.co.jp/news/041013/bun059.htm
本宮ひろ志の漫画で一番好きだったのがわしが中学生の頃にジャンプで連載していた『天地を喰らう』。三国志の世界を天上界と地上界の絡みで描いた異色作で、今のジャンプでは考えられないほど(っていうほどでもないか?)エロティックな漫画だった。孔明や超雲がそろっていよいよこれからってときに打ち切られ、すごく落胆したことを覚えている。本宮ひろ志もこれを機会に『天地を喰らう』の続きでも描かないかねえ。
んでもって焦点の「南京大虐殺」の話。いわゆる歴史的事実というものは全てが全て100パーセント確実な事実ではありえない。これは歴史の対象が直接には確かめることのできない過去に発生した事実であることからくる必然的な結論だ。ただしだからといって胡散臭い「事実」をも含めてなんでも「歴史」と形容してしまうことはもちろん許されない。あくまでもその「事実」が歴史のある時点で現実に発生した確からしさ=蓋然性は当然必要となる。
わし自身は「南京大虐殺」なるものが本当に起きたかどうかについてほとんど関心を持ってこなかったのだが、近年あまりにも歴史を蔑ろにするようないわば反知性的な言説を多く見かけるようになって、「歴史」を愛する者として非常に不愉快な思いをすることが多くなり、多少とも注目するようになった。不愉快な思いをした典型が上記の歴史的事実云々に関しての件で、「南京大虐殺は100パーセント確実に起こったとは証明できない、だから南京大虐殺はなかった」というロジックと「歴史的事実というものは100パーセント確実なものではない、だから古事記日本書紀における神話的な部分も歴史的事実とすることができる」というロジックが平気で同じ人間の口や文章から吐き出されてくるのを聞く(見る)に及んではその論理的欠陥を指摘する以前にただもう呆れるしかない。(一見矛盾しないように読めるが、わかりやすい例を挙げると、万世一系天皇家とかいうけれども血統がずっと続いてきたっていう100パーセントの証拠は何もないから天皇家なんていうものはそもそも存在しなかったっていうのと、歴史なんて100パーセント事実だって証明できないんだから天皇家も神話時代から存在したっていうことで問題ないじゃんという相反するロジックが混在可能なのである)自己に都合のいい結論(南京大虐殺はなかった、古事記日本書紀の記載は歴史的な事実である)を証明するために利用できるものならなんでも肯定的に評価するという時点で、こういうことを言う奴らは「歴史」でもなんでもないもの、いわば「似非歴史」を語っているのにすぎないのだ。(余談だが、以前「当時の新聞に日本軍人と中国人が仲良く写っている写真が掲載されている」ということを南京大虐殺否定の根拠の一つにしているのを聞いたことがあるが、これはこの手の人間がどの程度の歴史認識を有しているか、彼らの歴史認識の質を象徴している。このような程度の低い歴史認識しか持っていない人間が他人に歴史認識を改めろとか言うのは笑止千万!、という以外に感想を持ちえないのだが、こういうことを思うのはわしだけか?)
問題の本宮ひろ志の漫画では、明らかに日本軍兵士のものではないとされる写真をもとにして日本軍兵士が虐殺を行った描写がなされている。これ自体は明らかに行き過ぎであり、非難されてしかるべきものである。いまだ詳らかに解明されていない「歴史」については、特にその事実性に争いがあるものについてはより慎重に対処するべきであって、少なくともある一定の立場を鵜呑みにして描かれるべきではない。ただこの本宮ひろ志の行為、すなわち歴史的事実とは明らかに異なる資料を鵜呑みにしたという行為を非難できるのは、歴史に対して誠実に良心的に向き合っている者だけであって、少なくとも歴史を自分の都合のいい方向に捻じ曲げようという者には非難する資格はない。ちなみに『新しい歴史教科書』ではペリー来航に関して明らかに偽書とされている文書の内容をさも歴史的事実であったかのごとく記載している。これは明らかに捏造されたものを証拠として挙げてなにがなんでも南京大虐殺を肯定しようとする肯定派の一部のやっていることと同種の行為である。この一点だけをとっても『新しい歴史教科書』の執筆者やその支持者は本宮ひろ志を非難する資格はない。(いや、漫画がツマランとかの非難は可能よ(笑))
んでもって実際南京大虐殺はあったのかなかったのか?正直「わからない」というのがわしの感想。そもそも「南京大虐殺」というものがどれぐらいの地理的時間的範囲で行われたとされているのかの全体像がいまいちつかめない。たとえば否定派の論拠の一つに「虐殺されたとされる人数は当時の南京の人口をはるかに上回っている」ということがあるのだが、この「当時の南京の人口」の数字の根拠はどこから来ているのか、そしてその数字と大虐殺があったとされる時期の数字は符合しているのか、そもそもその数字は南京城内のみの数字なのかそれとも城外も含まれているのか、戦争中という非日常の中で人口の流動性は考慮されているのか等等はっきりとした根拠が示されていない。(もちろんこの問いは肯定派にも回答する義務があるのは当然)そして大虐殺が行われた(と主張する)のはいつからいつまでななのか、要はいつからいつまでの死者が「大虐殺」に含まれているのか(あるいはいないのか)、そういったある事実を歴史的事実として証明する証拠、根拠が双方とも明確にされていないのは問題であろう。(つーかそもそもこれは虐殺数の否定の論拠にはなりえても虐殺そのものの否定の論拠にはならないよなあ)
肯定派にしても否定派にしても歴史的事実としての南京大虐殺があったかなかったかなんていうのは二次的な関心事なんだろうなあというのが率直な感想。たとえば否定派の一部には南京関係も含めて戦前の体制を肯定的に評価する「歴史的事実」の一つとして、「日本は無条件降伏などしていない、ポツダム宣言受諾の条件に国体(天皇制)の護持を入れた、だから有条件降伏だ」と主張する人間がいる。はたして降伏することが条件の有無によって質的に変わってくるのかどうか疑問はあるのだがそれはとりあえずおいといて、確かに宣言受諾の条件に国体の護持を日本側が文書にして連合国側に渡したのは事実である。しかし連合国側はその日本が出した条件を受け入れることをなんら明言していないということ、そして日本側が条件が受け入れられたと勝手に勘違いしたこともまた事実としてある。なぜこの出来事の後半部分がこの人間から語られないか、その理由を推察するのは簡単である。すなわち彼にとっては戦前の体制が肯定される論理はただそれだけで肯定され、そしてその時点で思考が停止してしまうのだ。ちなみにアメリカ以外の連合国は天皇制廃止を主張しており、アメリカは日本における連合国内のイニシアチブを握るために早急に日本に象徴という形ではあるが天皇制を残存させた新憲法を作らせたという経緯がある。結果的に戦前体制を肯定する者が称揚思慕崇敬する天皇陛下閣下様様は、彼らが蛇蝎のごとく忌み嫌うアメリ押し付け憲法によって保護された形となったのであった。ああ、なんという皮肉でせう…まあこれは蛇足ですが、とにかく「歴史」を語る場合には真摯に、良心的な態度で、そして誠実に語って欲しいと切に願うのよ。