『鉄道員』

という映画が数日前テレビでやっていたのだが、ようやく今日見ることができた。この映画にはかの広末涼子が出演している。この時期ぐらいまでの広末涼子は天使だった。しかし今は天使である広末涼子はどこにもいない。今広末涼子を名乗っている者は広末涼子でもなんでもない別人である。なぜなら天使は妊娠も出産もしないからだ。
ん?なに?広末が天使なわけないだろうって?
確かに神の本質を語ってその事実存在を立証しようとしたデカルトの試みは成功しているとは言い難いように、世の現象をもって天使の実在を証明することは不可能であるといえる。しかしプラトンの有名な洞窟の比喩のように、またカントの認識論における悟性と理性の区別を用いれば、我々がかつて知覚できた広末涼子は物自体=天使=広末涼子ではなく、そこから我々の知覚を通して認識できる現象としての広末涼子に過ぎない。そして我々が理性をもって現象たる広末涼子から物自体たる広末涼子を考察すれば、そこには天使たる広末涼子の理念型がうかびあがる。なぜなら当時の広末涼子はおしっこもうんこもセックスも妊娠もしなかったからである。
え?んなバカなって?ええい黙れ!そうだったんだよ!
逆をいえば物自体たる天使からは妊娠して出産した広末涼子という現象は決してうまれない。したがって今現在広末涼子を名乗っているこの現象は、天使たる広末涼子からうまれたものではありえないから別人なのである。
……ってなことを以前宴会で主張したら、その場の人達に可哀そうな人を見るような目で見られました。