おっぱい考

http://taro.cocolog-nifty.com/taro/2006/02/post_21ed.html
なぜ我々(野郎限定、以下略)は、こんなにもおっぱいに心ひかれるのだろうか?
ちち、乳房、胸、バスト、そしておっぱい…この単なる肉のかたまりがわれわれの精神に湧き上がらせるエネルギーは、一体なにを我々にさせようとしているのだろうか?
我々は単ににおっぱいを見たいのだろうか、触りたいのだろうか。
歌詞にある、

おっぱい 見せたって

おっぱい さわらして

は、おそらく我々全員の魂からの叫びといっていいだろう。
しかし、実際におっぱいを見ることで、触ることで、我々は満足するのであろうか。
確かにおっぱいを見、触ることでなにがしかの満足を得ることは可能であろう。しかしそれで我々の内奥からほとばしり出ようとするおっぱいへの神に対する求めにも似たそれは、おっぱいを見、触ったとしてもさらに減ることはあってもなくなることはないであろう。
その理由として考えられるのが、「見る」「触る」という行為が我々の湧き出るエネルギーの処理方法として完全ではないということ。いくら我々がおっぱいを見、触っても、おっぱいを我々が「得る」ことは不可能である。我々が狂おしくも叫び、求めるおっぱいは、たとえ眼の前に自由に見、触ることのできる状態にあるとしても、それは我々に完全な満足を決して与えてはくれない。
とすると我々は、決して届くことのないエサに向かって必死な形相で手足をばたつかせる犬のような、愚かな存在なのだろうか。
私は違うと考える。
そもそも我々は、この世に数多く存在する、実際に女性の胸部にあるふくらみを求めているのか。否、我々が求めているのはそれら実際のおっぱいを超越したもの、実在のおっぱいの総体としての、観念としてのおっぱいなのではないか。
もしも我々が存在としてのおっぱいを求めているのであれば、おっぱいを見、触ることによっては完全な満足を得ることがないことを思い知り、以後のおっぱいへの望み、思慕はなくなることはないにしても段々に減少してゆくはずである。が、我々のおっぱいへの湧き上がるエネルギーは復活する、それも何度も何度も何度も…
このことから実際のエネルギーの発露としての行動が実在のおっぱいを見る、あるいは触るというものであったとしても、我々が真に求めているおっぱいとは我々のおっぱいへのエネルギーを消費させてくれる「べき」ものとしてのおっぱい、すなわち我々が心中において作り上げた観念としてのおっぱいであるというべきではないだろうか。




と、ここまで書いたのだが、眠くなってきたので終わる。
あくまでも冗談としての文章なので、本気にしないでね。