不寛容

 映画草創期の代表的な人物であるグリフィスが作ったこれまたこの時代に代表的な映画に『イントレランス(『Intolerance』)』というものがある。内容は4つの時代における題名どおりの不寛容を題材にしたもので、サイレント時代の映画として内容的にも技術的にもその時代の頂点に立つともいうべきものであったがそれはまずおいといて、彼がなぜ「不寛容」という名前の映画を作ったのかが今回の導入ネタ(笑)である。グリフィスはこの映画の前年にこれまた有名な『国民の創生』という映画を製作しているのだが、これが興行的には大成功であった半面、その内容に人種差別的な表現があったことから大論争を巻き起こした。グリフィス自身も人種差別主義者であったことからいろいろと非難されたらしく、この反応を彼は自分とは異なる思想、表現を許容できない(不寛容な)人間の態度として受け取り、その批判の意味も込めて次に製作する映画の題材にこれを採ったということだそうだ。(このあたりは10年ほど前になにかの講義で聞いた話のうろ覚えなので細かいところで間違ってるかもしれない)
 さて、他人の思想に対して不寛容であるとはどういうことを指すのか?この問いに対する答えはいろいろなものがあるであろうが、おそらく一つの解答として「自らの思想以外の思想を、その存在すら認めない」というものが挙げられるだろう。ではある思想の存在を認めないこと、否定することとは具体的にどういった行為を指すのであろうか?たとえばある人は○○主義という思想を己が信条としているとする。ではこの人に対して「あなたの考えは間違っている」ということがその思想を否定することになるのであろうか?答えは「否」である。
 ある人がある「思想」を信じているという場合、その「思想」という言葉自体は(たとえば○○主義という)一般的な意味を持ってはいるが、その人が信じているところのその思想は一般的普遍的な意味での「思想」そのものではない。この場合におけるその思想はその人が信じているところの思想、他の誰でもないその人がその思考、経験等によって体得した世界に二つとない体系を持ったオリジナルである。したがってその人の考えを否定することは一般的な意味での「思想」を否定することには必ずしもならない。
 このことはその人がある思想を信じている原因、根拠を否定する場合に容易に理解できる。ある命題Aの正しさを証明するためにBという根拠を主張したところ、そのBが間違いであると指摘された。これはAそのものの否定を意味するかというと必ずしもそうではなく、否定されるのは「Bという根拠によって証明されたAの正しさ」であって「Aという命題の正しさそのもの」ではない。
 だが実際には、ある思想の正しさを証明するために出してきた根拠、証拠などに対して、その誤謬を一般的客観的に容易に理解し得る形で指摘すると、一体なにを勘違いしてしまうのかそう指摘した者に対してその思想(一般的な意味での)そのものへの反対者というレッテルを貼ったり(まあこれだけなら実際にその通りのこともよくあることなので、心情はわからんでもないが)、挙句の果てには他の思想を含めた思想一般を許容しない者、不寛容な者呼ばわりする困ったちゃんも世の中には稀にいるもんだから困るというか呆れるというか笑うしかないというか。
 一般的客観的に容易に理解できるような誤謬を何らかの思想の根拠にしている人って実際にはめったにいないものだから(普通の人は思考の過程で容易に誤謬に気づく)、そういう人がそのような突飛な思考をすることはある意味納得できることではあるんだが、まあそういう理解をすることについて他に考えられることは、自我が肥大してその思想そのものと同一化していると感じているとか、あるいは一般意識そのものと同一化しているとか?「私の思考を否定する者がいる→私は一般性、普遍性そのものである→したがってその者は一般性、普遍性への敵である」とか、すさまじい三段論法(笑)。いやまあ冗談だがな。こんなんに同一視されたらその思想も迷惑だろうし(笑)。というかこういう人間の方が逆に他人の思想について不寛容だったりするのがまた笑えるところなんだが。