『愛国者は信用できるか』(鈴木邦男 講談社現代新書)

愛国者は信用できるか (講談社現代新書)
著者は新右翼一水会元代表三島由紀夫が自決した際、共に自決した森田必勝は、大学の後輩だったそうだ。
この本を通勤時に読んでいたのだが、生まれて初めて本に気を取られて降りるべき駅を乗り過ごすという漫画みたいな体験をした(笑)。
以下はその感想。
最初に断っておきますが、私は国粋主義者でも共産主義者でも民主主義者でも自由主義者でもありません。あらゆる「主義者」と名のつくものに対し嫌悪感を抱くひねくれ者です。
私は文章によって人を説得しようとか論破しようとかしようとはまったく思っておりません。したがって人と議論することは基本的に好みません。


他人を評価する上で「○○派」という言葉を安易に使用して、そこから様々な要素を演繹する人間はあまり信用しないほうがいい。彼らは他人を全体的に評価するための概念を数パターン持っていて、評価対象にある概念の一徴表があらわれたらその概念の他の要素も当然備えているとみなし、その対象に対して事前に結論付けられた判断を下す。彼らにとって人間とはその数パターンの概念に包摂しつくされている。それ以外のパターンは彼らにとってはあってはならない。
三島由紀夫は東大全共闘との討論の中で、天皇に関する点を除けば君達と共闘できるという趣旨のことを言ったんだそうな。これと同様のことを三島以外の者が発言したとしたら、はたして民族派だとか愛国者だか自称している方々で、同調する人間はいるんだろうか。全共闘=左翼=敵、否定の対象という思考をする者がほとんどだろう。
愛国心は危険だ、という本書の言葉に私は賛成する。愛国心は、知的思考だとか論理が重要視されないため、一種の「痴愚者」を必然的に生み出す。ある人間の発言が気に喰わなければその者の家に放火する(自民党の加藤元幹事長の実家への放火)、外国で反日デモが起これば日本にあるその国の大使館に嫌がらせをする、古いところでは天皇機関説の美濃部教授に対する狙撃等々。実行者は愛国心ゆえの行動であると思い込んでいる。が、論理的に考えればこれらの行動が国として何かしら益するところがあったかというと、なんの意味もない。おそらく実行者は、愛国心を体現したという愉悦を味わっているのだろうが、行為自体の意味を考えることはしないだろう。
以前テレビか何かで、多重債務者を支援する弁護士が語っていたのだが、闇金業者との話し合いで相手方は色々と脅してくるが、彼らは決して実際に襲ってくるようなことはしない。なぜなら彼らは経済原理に従って行動しているから、経済的に見合わない暴力行為を起こすようなおろかなことはしないからだ、とのこと。そしてホントに怖いのはオウム真理教のような宗教を相手にするときであると語っていた。この宗教の怖さというのは、論理が通用しないという点でそのままこの手の自称「愛国者」にもあてはまる。
話は変わるが、筆者がその昔、竹中労*1と付き合いがあったという記述を見て、へえーっと思った。竹中労を許容できる点で、自称「愛国者」な方々とは少し違うなと。そいえば、日本赤軍に「奪還」された泉水博が服役中に、病気で苦しむ同僚を助けようとして共に行動を起こしたのが野村秋介*2だったそうな。
以上眠いので終わり。

*1:作家?ルポライターアナーキスト

*2:新(?)右翼、確か朝日新聞に抗議して自殺したんだっけ?